夏、花火(恋しくて)

明日、花火大会にいく。

大学最終年の友人が「青春っぽいことをしてこなかった人生だった」と言っていたので、せめて男二人でも花火大会に行こうか、ということになった。おそらく、花火なんかほとんど見ずに酒を飲んで焼きそばを食べて…となるだろうが、そんなことは重要じゃない。そういう大衆の場に行くことに意味がある、と思っている。

僕は過去に花火大会へ行ったことがある。高校生から大学生になる頃付き合っていた彼女と別れて、それから恐ろしいほどの無理をして生活を送っていた時期だ。今でも素晴らしい関係を築けている女の子(その彼女の先輩にあたる人)と、二人で行った。それで彼女や彼女との思い出、僕のどうしようもない気持ちも、ひとまずは落ち着くだろうと本気で思っていた。それでいざ花火大会に行って、屋台に並んでいるときに、その彼女が新しい彼氏と楽しそうに喋っているのに偶然遭遇してしまうとは、夢にも思わなかったのだけれど。

今でも夏になると、どうしても彼女の存在が記憶の奥底からフッと現れて、僕をどうしようもない気持ちにさせる。すべてはそこから、そことどう向き合うか、というところから僕のこの苦しい三年間がはじまったのだ。あらゆる事を勉強して、どうにかどうしようもないものをうまく処理できないだろうか、と思い、いつもうまくいったつもりではいるのだけれど、夏になると「また今年もか…」となってしまう。最初の一年間は"記憶の問題なのだ"とか、"すべては虚構の関係性なのだ"とか、結局ニヒリズム的な思考で落ち着かせようとしていたが、どうしようもないものは理性や論理をぶっ飛ばして、突然やってくる。まるで心の奥底では、そうなることを望んでいるかのように。

"花火"自体にも思い出すことはあって、僕と彼女は大学の夏休みがはじまったら、二人で河原で花火をする予定だった。彼女とは離れて暮らしていたので、会うことも久しぶりなくらいだった。僕は本当に楽しみにしていた。それが彼女からの一本の電話で、すべてが消え去った。その前まで、なんの予兆も感じていなかったのに。結局次に会ったのは、花火をするためではなく、別れ話をするためだった。今まで生きてきた中でいちばん(スポーツをやっていた時の一億倍くらい)全力で彼女の家まで走って、別れを告げられたのだ。

彼女が、彼女という存在ではなくなった、というのはそこまでどうしようもない気持ちにさせるものではない。なぜ僕らは、僕らの関係性に、名前を付けてしまったのだろう、とよく思う。僕と彼女の無限大な関係性は、一度名前を付けて、そしてその名前を取ってしまうと、すべて星の彼方へと消えてしまった。どうして、名前を付けてしまったのだろう。

これらのこと(ほんの一部に過ぎないが)は今思ったわけではなく、この三年間、ずっと考えていることだ。

僕はこれからも毎年、絶対に思い出すのだろう。そして毎年、どうしようもないものがフッと現れて、たまにはこんな文章を書かせたりするのだ。自分の弱い部分は、人に見られたくないのだけれど。