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小沢健二の「さよなら」観について

小沢健二の思想

井伏鱒二の「花に嵐の例えもあるさ さよならだけが人生だ」と、それに呼応する形の寺山修司の「さよならだけが人生ならば  また来る春は何だろう」という言葉を見て、小沢健二の歌詞に出てくる「さよなら」について考えてみる。

フリッパーズギター時代の「すべての言葉はさよなら」という曲の歌い出しで

「雪が溶けて僕たちは春を知る 同じことただ繰り返す 喋る笑う恋をする 僕たちはさよならする」

という歌詞が出てくる。素晴らしく、せつなすぎるほど僕たちの恋愛の無常を歌っている。僕たちは春を知って、喋り、笑い、そして恋をする。そしてさよならをする。僕たちはただこれを繰り返すだけ。ほんとうにせつない。

「カメラの中でほら 夢のような物語がはじまる」

カメラの中に収まるのは一瞬だけ。僕たちは恋愛の無常を知りながらも、そうした一瞬の夢物語を楽しみ、そこに美しさを感じる。

「分かり合えやしないってことだけを分かり合うのさ」

フリッパーズファンの中でも特にこのフレーズが好きな人が多いが、ほんとうに素晴らしい。一瞬の夢物語を楽しむが、気付くのは分かり合えやしないってこと。それだけを僕たちは分かり合う。そしてさよならをするのだろう。

フリッパーズ時代のこの歌詞にはどちらかといえば井伏鱒二的な感性が含まれている。せっかく出会えた美しい花も、すぐに嵐がきてしまい消え去ってしまう。僕たちの人生にはなぜかそういうサイクルがある、という無常観が痛いほどせつない。寺山修司は「さよならだけが人生ならば 人生なんていりません」と語っているがこの歌詞は(というよりこの曲が収録されているアルバム「カメラ・トーク」では)カメラの中の一瞬に僕たちは恋をする。それはほんとうに一瞬ですぐにさよならをしなければいけないのだけれど、それでもその一瞬ってすごく美しいよね、その事実は変わらないよね、とせつなすぎる無常に一瞬の美しさで対抗しているのだと思う。

 

小沢健二がソロになってからの曲「さよならなんて云えないよ」は前も小沢健二の事を話したときに少し語ったのだけれど、タイトルからすでにフリッパーズ時代とは違う「さよなら」観を持っていることがわかる。

「僕らの住むこの世界では 太陽がいつも昇り 喜びと悲しみがときにたずねる」(ぼくらが旅に出る理由)

「左へカーブを曲がると 光る海が見えてくる 僕は思う!この瞬間は続くと!いつまでも」(さよならなんて云えないよ)

僕たちの生きるこの世界では、僕たちとは無関係に美しい光景が存在している。そしてそれは、いつまでも永遠に存在している美しいものである。僕たちは春を知って、喋り、笑い、そして恋をする。でもいつかさよならをしなければいけない。そのさよならはとてもつらく、苦しいものであるのかもしれない。「さよなら」というフィルターを通してしまうと、カメラに収められた光景は過去のものになってしまう。だから僕たちはさよならをしなければならない。でも、カメラの中に収められた美しい光景は僕たちの中に存在し続けうるものだと思う。「僕は思う!この瞬間は続くと!いつまでも」というフレーズの中には"永遠に存在する美しい光景"と、"その光景を見ている一瞬の美しい僕たち"という意味が含まれている気がする。僕たちの中ではその一瞬は思い出という形になって残り続ける。だからこそ「さよならなんて云えないよ」なのかもしれない。ソロになってからの小沢健二の「さよなら」観はフリッパーズ時代から成長をみせ、その一瞬って美しいよね、その事実は変わらないよね、そしてそれは僕たちの中に残り続けるよね、と「さよなら」と真っ向勝負をしかけるものになった。

 

小沢健二はソロになってから「フリッパーズギターのCDは全部捨ててください」と言ったけど、それは小沢健二フリッパーズ時代には"キザな言葉で逃げ回っていた"自分から、"逃げることはせず正面から向き合う"という自分に変わったからなのかもしれない。

 

小沢健二の「さよなら」観を僕なりに考えてみた話。

 

追記

 コメントと感想を言って下さった方、めちゃめちゃ嬉しいです。ありがとうございます。自分の思想の掃き溜めでしかないと思っていたのだけれど、誰かが見てくれているというのはかなり嬉しいことなのだと気付きました。