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ここ数日間のこと

数日間家を離れていろんな人とおしゃべりした。2016年のうちに今まで会ったことのない人も含めて、たくさんの人と喋りたいという気持ちだったのでとても満足している。昨日家に帰ってきて、辻くんが泊まりにきていたのでアホみたいにご飯食べたり酒を飲んだりした。

基本的にバンドをやるってなってから(ちゃんと言うと歌詞を書くってなってから)あらゆる出来事を自分の思想の一部として吸収していきたいと思っていました。この数日間の出来事は自分にとって大きな大きな意味を持ちそうです。かなり刺激を受けました、発見がありました、思想が深まりました。すごく簡単に言ってしまえば「これが人生だ、これが意味なんだ」と思いました。これからどんどん歌詞で表現していきたい。

歌詞といえば、数日前にぼくらの新しい曲「うつつの夢(魔法のようなシーンなら)」を公開したのですが、この歌詞も頑張って書きました。なかなかに面白い歌詞だと思っています。魔法のようなシーンが訪れたとき、あなたはどう感じますか?歌詞のことやあなたならどう感じるか、お話ししていただけたら嬉しいです。

めちゃめちゃ最高すぎる出来事があったので文章にしようと思っていたのですが、今回はやめておきます。

 

クリスマスが近いのですが、みなさん予定は入っていますか?純粋にクリスマスを楽しむのも、クリスマスごっこを愉しむのでも、どちらでもいいと思う。理由はなんであれ、たのしむ日があるのって素晴らしい。特別な日っていうのは別に特別じゃなくても口実になればなんでもいいかなって思ったりする。魔法のようなシーンが訪れるなら。ちょっと恥ずかしいけれど。

 

まだ2016年が終わってないので、喋りましょう。

 

For Tracy Hydeについて

高校生の時から大好きなバンドであるFor Tracy Hydeが『Film Bleu』というアルバムを出した。BoyishやUkiyo Girlというバンドと共に僕の所謂青春と呼ばれる時期に寄り添ってくれていたバンドだ。

 

Film Bleu

Film Bleu

 

 

はじめて聴いたのは高校2年の春とかだった気がする。そのときはまだ夏botさんがボーカルでCanata Recordsから無料でダウンロードできる『Satellite Lovers』というアルバムが大好きだった。当時はインディーのバンドをあまり聴いていなかった、知らなかったこともあってもう単純に「こんなめっちゃ渋谷系の曲作る人がいるのかーめちゃめちゃ最高だなー」くらいに思っていた。

僕が高校3年生になってすぐくらいにラブリーサマーちゃんがボーカルとして加入した。もちろんラブリーサマーちゃんの曲は好きだったし声とかめちゃめちゃ良いしズルいわーとか思っていたのだけれど、For Tracy Hydeに加入するというのはどうなんだろうと正直思っていた。僕は夏botさんの歌声がとても好きだったし、それが聴けなくなるのはどこか寂しかった。でも、ラブリーサマーちゃんが加入してから出した最初のEPで衝撃を受けた。めちゃめちゃ最高だった。当時自分はバンドをしていなかったし曲を作ってもいなかったのだけれど、勝てないと思った。それくらい女性ボーカルがハマっていて、それでとても綺麗な言葉で綴られた歌詞を歌われたら圧倒されるしかなかった。そのあとライブ会場で次のEPである『Born To Be Breathtaken』を購入したが、これもまた凄まじく良かった。僕はもうFor Tracy Hydeの大ファンなのだ。

ボーカルがeurekaさんに変わってからは、さらにバンドとしてガッチリハマった感じがして最高だ。辻くんもよく言うのだが歌詞がすごく明瞭になった感があってとても良い。

その歌詞についても触れたい。

botさんの歌詞はとても綺麗で美しい。最近何度も言っていることなのだけど僕は現実とコミットした歌詞が好きだ。基本的に僕は歌詞で救われたいと思っているのだけれど、今まで救われてきた歌詞はほとんどが、現実を肯定し人間の機微と人間だけではないこの世のすべての混然とした美しさを表現しているものだ。(小沢健二はまさにそうで、何回救われたかわからない)なので現実ではない虚構の世界をどれほど美しく描かれても、そこに入り込めないし救われない。これは感性の違いがあるってだけの話だからどちらが良い悪いではないし間違っても批判と捉えないでいただきたい。僕はFor Tracy Hydeの歌詞世界は虚構の世界だと感じる。本当に綺麗で美しい虚構世界だ。ただ今まで聴いてきたそのようなバンドとは何が違うかというと、この『Film Bleu』というアルバムはいとも簡単にその世界に入り込めてしまう、というところだ。そしてそれがとても心地良い。入り込みすぎて、これが現実なのではないかと思わせる。僕にとっては今までこのようなアルバムはなかったと思う。さらに言うと、フレーズだけを引っ張ってくるなら本当に切ない人間の心の機微を描いていて、ものすごく現実とコミットしてるように思わせる。というより、本当はすべてそうなのではないかと思ってしまう。

これは僕がこう感じた、こう思ったというだけなのでもっと様々な捉え方があると思うし、どう捉えるかはリスナーの自由だと思う。とにかく自分にとってとても刺激を受けることになったアルバムだ。まだ未聴の方はぜひ聴いていただきたい。(たぶんおぼえていらっしゃらないと思うのだけど、ぼく一回だけお茶したことがある、これ自慢)

最後に僕がいちばん好きな歌詞を載せておきます。僕はFor Tracy Hydeが大好きだ。

 

「After」

どうして雨は止んでしまうのかなって、君との雨宿りのたびに考えてた。

通り過ぎたスコール、微熱を奪うことなくーー

そんな日々も今は昔?

 

どうしてもかすらない視線の先で、君は違う誰かを想い描いているの?

飲み干したスコール、べたつく甘さと温度。

私の白昼夢はまだ覚めちゃいないのに。

 

揃いのミサンガは私の願いを叶えずすり切れて、空転する時間を静かに物語ってる

いまだって手をのばすのに、君が君じゃない錯覚がなに食わぬふりをさせるの。

 

教室に忘れた詩編にも似た手紙の、フレーズがほつれて注ぐような、

追憶のスコール、ひとりきり思い出すーー

そんな君じゃないとわかってる。

 

はじめて交わした言葉をいつしか忘れていたように、長くて緩やかな終わりが続いていたのかな。

感傷と上手く折り合えずにいるのはわたしの方なのに、すっと笑ってみせるから、もどかしいな……。

 

ねえ?

 

許したふりがたやすいのは、茜射す光の角度が強がりも悲哀も絵に変えてしまうから。

許せないままでいるのはさ、きっと君のことだけじゃない。湿った歩道の風に吹かれて、想うの。

 

さよならアーモンドの話

『さよならアーモンド』

 

飛び出す事忘れたの?

ボーイ 聞かん坊 さらに耳鳴り

 

透明なんて嘘だって知ってたんでしょう

なら悪いのは君の方さ

 

最近ちょっと疲れちゃったっぽい

走る想いも息どまり

で 気づいたらいつのまにかスタンド・アローン

甘ったるいチョコレートは全部溶けた

 

アーモンドが口の中で転がって

いつ噛み砕いてしまおうか迷ってる

 

『たからじま』の曲たち、ちょっと観念的で全体を通して分かればいいみたいな歌詞で音の響きを重視してると思うんだけど、めちゃめちゃ良いし、さよならアーモンドの「透明なんて嘘だって知ってたんでしょう なら悪いのは君の方さ」というフレーズが泣ける。「甘ったるいチョコレートは全部溶けた アーモンドが口の中で転がって いつ噛み砕いてしまおうか迷ってる」という部分もめちゃめちゃ泣ける。ぼくは虚構世界を歌われるよりもこういう歌詞に救われる。いろんな感性の違いがあるってだけの話。

普段通りに戻る

1週間以上経ってだいぶ落ち着いた。

 

11月はいろいろと忙しかったからあんまり本を読めなかったけど、今月はたくさん読みたい。12月はこれから表現活動していくために自分の思想を深くするって目標をたてたから、休みながらいろいろ頑張る。

良い刺激を与えてくれる人たちと悪い刺激を与えてくる人たち。あなたはどっち!?

 

女の子がお笑い好きだからツイッターM-1のことつぶやかなくても良くなった。まわりに「俺でもできそう」みたいなこと言うしょうもない大学生がいなくてよかった。

M-1見た?」の一言でこれだけテンションが上がる女の子めちゃめちゃ最高かよ。

 

女の子でひどい目にあった人だいたい友達。一緒に串カツ食べましょう。

 

今週末はサッカーが楽しみだったし、実際めちゃめちゃ楽しかった。もう1つの完全に自己満趣味丸出しのブログで記事書いてるのめっちゃ楽しい。情熱だけで書いてるし「読んでくれ〜」っていう感情もまったくないから、なんも意識してない。

 

12月だしクリスマスの曲作ろうぜっていう安易な考えでちょっと動いてる。ツッコミ社会。この安易な考えが逆に面白いと思う。まだなんにもわからないけど。

クリスマスの曲って言われても、クリスマスにまったく思い出ないし(悪い思い出なら多少あるけど)思い入れも特にないからなあ。

今年のクリスマスはなにしようかねえ。

 

久しぶりに軽〜〜い文章書いた気がする。ちょっと日記みたいだし。

 

「遠くまで旅する恋人にあふれる幸せを祈るよ ぼくらの住むこの世界では太陽がいつものぼり 喜びと哀しみが時に訪ねる」(小沢健二 /ぼくらが旅に出る理由)

 

あと数ヶ月で小沢健二の「ぼくらが旅に出る理由」を聴きながら涙を流す日がくるのだろうなあと考えるとちょっとキツくなってくる。

 

おつかれさまです

このブログで「この記事読んで!」みたいなこと、たぶん言ったことないけど、これは読んでほしい。特に最後の部分だけでも読んでほしい。

 

僕とツジくんがいろいろと活動をはじめたのが、だいたい夏前くらい。6月のミツメのライブに行ったあとからだから、たぶん7月とかそのくらいだと思う。だから必然的に公開していない曲も含めて夏っぽいものを作った気がする。「アフター・サマー」とか9月頃に公開したかったやつ。

僕とツジくんは幼稚園から中学校までずっと同じところに通っていた。特に中学の頃はいつも一緒にいたので、わりと仲は良かった。2人とも音楽が好きで、よく自分のオススメを教えあったりしていた。学校にCDを持ってきて休み時間に聴いてたこともあったなあ。2人とも周りに音楽のことを話せる人がいなかったのもあって、毎日のように喋っていた。でも、高校生になってから少しずつ離れていった。それは単純に別の高校に進学したってこともあるのだけど、いちばん大きかったのはふたりの高校生活が真逆と言っていいほど違っていたからだ。これは僕が感じたことだから本当のところはわからないけど、完全に光と影。彼が光で、僕が影。彼の話を聞いていると、もちろん彼にもたくさんつらいことがあったし相対的に見ることじゃないけど、もしかしたら僕よりももっとつらかったかもしれない。でも彼は高校生活を楽しんでいた。僕は自分の中に引きこもってしまった。ちょくちょく会って話したりはするものの、もう住んでいる世界が違うなあと正直、思っていた。それでも僕もたくさんの人、ものに救われて、少しずつ大人になっていった。そして大学生になってから、2人は「再会」した。2人とも大人になって。そして中学の頃よく2人で言っていた「バンドとかやりたいね」という言葉を現実にすることができた。これは、自分の中で、かなりエモい話。めちゃめちゃに恥ずかしいけれど、書きたかった。僕らを大人にした、救ってくれたものが曲にいきている。僕の場合、特に歌詞に。

 

僕は歌詞をすごく大事にしている。

自分たちの曲の解説をするのはあまり意味がないし、するべきじゃないと思っているのだけど、ひとつだけ言いたいのは、今回のEPに収録した曲のほとんどは「さよなら」に反抗している。ものすごく正直に言うと、ほんとうはもっといろいろ感じてほしい。こんなこと言うのは間違っているってほんとに分かっているつもり。

夜を越えるのが、夜を越えて君の言葉が届くようになるのが、どれほど難しくて辛いか。全てを知りながら、それでも笑って手を振ることをどれだけ望んでいるか。どれほど美しい僕らを映しだしたか。僕はすべての歌詞をひとりきりの部屋で書いた。僕にとってのホームタウンは、甲府

正解なんてないのですが、でももっとなにか感じてくれたら嬉しい。みんながそれぞれの意味を与えてくれたら嬉しい。だからもっと自分も頑張らないといけない。いろいろ。

これは全部僕の勝手な願望。押し付ける気なんかまったくない。でも、正直に文章を書きたかった。あまり気にしないで。

 

少しだけ告知をぶっこむ。(ぶっこむってフレーズ、くりぃむしちゅーのラジオの影響)

こちらから僕らの音源が聴けるのでさっきまで僕が言ってたこと、いろいろと無視してよかったら聴いてください。

http://countryside-sanpo-club.tumblr.com/post/153680272342/hometown-ep-demo

 

それと公開していない曲の歌詞も含めてCountryside Sanpo Clubのことばが載せてあるのでこちらもよかったら。(公開していない曲は今後公開するかわからないのですが、自分の気持ち的に1回すべてを出しておきたかったので)

 

 

 

 

 

 

最後、ほむらさんについて。

僕らの最初の音源、それもデモのEPにライナーノーツを書いていただいた。僕はほむらさんのことばが、ほんとうに好きだ。あまり言うと安っぽくなってしまうから気をつけたいのだけど、心から尊敬している。はじめて出来上がったライナーノーツの原稿を読ませていただいたとき、涙が出てきた。それは自分たちの曲が、自分たちの手を離れて、はじめて意味を与えられたことの感動もある。自分が美しいものとして大切にしてきたものを、「美しい」と評価されたことで救われたような気持ちになったことも涙が出た理由のひとつだろう。でもそれは、この美しいことばたちによって語られたからこそだと思う。僕は文章を書くのは好きだが、それほど得意ではない。だから、理性的にこのことばたちの美しさを説明することができない。ほんとうに悔しい。でも、本能で、すべてのことばがほんとうに大切に、意味を持って綴られているのだなあと簡単に感じることができる。それと、ライナーノーツ以外の記事でも、ことばに色々な表情がはっきりとある気がする。それがとても面白い。そのような文章を僕は書くことができない。

ほんとうに大切に聴いていただいたのだなあとライナーノーツから感じることができる。僕らの曲にはじめて意味を与えていただいたことがほんとうに嬉しい。

僕は世の中に美しいことばがたくさん溢れてほしいと常日頃から思っている。少しでも、この美しいことばたちがたくさんの人に伝わりますように。

 

 

 

わりと長めの文章だけど、読んでくれてありがとう。はじまったばかりなので、これから頑張っていきたい。それと、めちゃめちゃに楽しみたい。

 

 

 

 

自分の整理

久しぶりに精神がキツイなあってなったから少し考えてみる。

 

この間コウヘイくんと喋っていて、また現実と虚構の話になった。偶然と必然の話もしたのだけれどそれは一旦置いておいて…。僕はどちらかというと現実主義的な考え方?感性?なのかもしれない。彼にも言われたが三島由紀夫小沢健二シャムキャッツ…僕はやっぱり現実主義的なところとコミットしてる部分がある。想像するフィクションの美しさよりも現実にそこに存在している美しさに魅力を感じるし、そうした考え方に救われてきた経緯がある。それは別にどっちが正しい正しくないの話ではなくて、それぞれどう感じて何に救われてきたかってことだとは思う。

キラキラとしたインディーポップに、キラキラとした美しい歌詞。あらかじめ言っておくとめちゃめちゃ好き。でも僕はシャムキャッツの歌詞により魅力を感じる。なぜなのか。おそらく自分のこれまでの経験が影響してるのではないかと考えた。

キラキラとした歌詞は基本は青春や恋なんかがテーマになっている。僕は中学3年までアニメが好きでよく見ていた。特に好きだったのが青春学園ものやラブコメとかその周辺のもの。青春学園ものなんかは、男女の青春時代の純粋な恋模様を描いているものが多く、とっても美しい。そして当時はそこに対する憧れが非常に強かった。「いつか僕にもこんな恋ができるのだろうか…できたらいいな…」なんて言いながら頭の中で妄想してはニヤケてみたり、疑心をいだいてみたりしていた。この時の僕の恋のイメージはかなり美しいものだった。

中学3年の春くらいにアニメはあまり見なくなり、秋には人生ではじめての彼女ができた。付き合いたての頃は少しイメージとは違うな、と思いつつもそこそこ楽しかった。でも高校に入ってすぐくらいから僕らの関係はとてもドロドロしたものになる。とても甘美なものではない動物的な性の経験や貞操観念の欠如。自分の鬱を助長するような経験(これが鬱のきっかけ説もあるけど)がたくさんあった。

それから何年かは女性関係はまったく無かったが、高校3年の秋頃に当時好きだった女の子とわりと仲良くなってその子の誕生日にデートをすることになったのだが、突然理由もわからず喋ってくれなくなった。当然デートの話もなくなった。徐々に美しいイメージより負のイメージが強くなっていく。

そのあと冬にすどうさんと付き合うことになる。すどうさんとの話はもう何回もしているから多少省くが、一緒にいた時間はとても美しいものだった。しかし半年で「もう好きではなくなったかもしれない」と彼女に告げられ別れる。どうせすべて終わってしまうんだ、と思った。鬱も治るほど美しい時間を過ごせてもどうせ終わりがくるんだ、それで美しい時間にどっぷりハマってしまっていたが故に深く傷つけられてしまう。物語は一瞬なんだ、それを理解した上で楽しまなきゃいけないんだ。この状態の時に以前記事にも書いた小沢健二のさよなら観(小沢健二の「さよなら」観について - シミズのコトバ)を理解することによって救われた心持ちがした。

そのあとに付き合った女の子とも結局はドロドロとしたものになってしまった。それも今まででいちばんといっても過言ではないくらい。今日、ほんとうにトラウマになってることにちゃんと気付いた。身体の震えが止まらなかった。もう僕のなかで中学までのような恋のイメージはまったくなかったし、いちばん残念なのはこういう経験、ドロドロとしたものが自分の中でベースになってしまっていたこと。もう、少しの濁りもないキラキラとしたものは現実として想像できない。現実では彼女の愚痴を聞くのはめんどくさいはずだし、「愛してる」なんて言葉を求められたところで意味なんかないってわかってる。でも一緒に散歩するのは楽しいし、ふたりでちょっとあったまるのだって幸せだ。それが現実だし、その一瞬に美しさを感じる。その美しさをポケットの中で魔法をかけて、優しさにして、箱に閉じ込めておく。すべてを知って、それでも僕らは笑って手を振る。それが、僕にとっての美しさであり、僕の現実を最大限肯定するものだと思っている。

なのでものすごく簡単にまとめると、女性関係において僕のベースにはドロドロとしたもの、めんどくさいもの、絶対に終わってしまうものというイメージがあり、それでも楽しくて美しいもの、という順番であるから1回自分の中のベースを通らなければそこに美しさを感じない。なので、こうした自分の経験した女性関係が現実主義的な感性に影響を与えているのではないかと考えられる。もちろん、今日身体が震えてからこの文章を書き始めるまでに思ったことをまとめただけなので、考察が浅い部分もあるかもしれないが、とりあえず今日思ったことをまとめて文章にしておきたいと思ったので書いた。ほんとうはもっと複雑だ。

 

でも今日は、逃げたいと思った。

 

ところでもうすぐ僕らのバンドの曲を公開できるかもしれない。歌詞をみて、いろいろ考えてくれたら嬉しい。

 

 

 

お腹空いた

ここ最近忙しくて、やらなければいけないことと考えなければいけないことがたくさんあったけど、少し落ち着いた。少し落ち着いたら急に暇になったから文章を書く。

 

この数ヶ月で今までの生活とガラッと変わった。それに伴っていろいろなものを失ってしまった。こればっかりはもうしょうがない。変なニヒリズム的なものを身につけてしまったからわりと落ち込まずに済んでるのかも。

このまえ友人と喋ってて「シミズは常に俯瞰で自分を見ている」みたいな話をしたのだけど、これは昔からある。感覚的に言うと、ゲームみたいに自分という人間をどう育成していくみたいな、ちょっと違うんだけど。

僕が三島由紀夫になぜこだわるのか。三島由紀夫のもつ美意識や完全性への憧れに少なからずシンパシーを感じるからだろう。僕は三島由紀夫の人生はかっこいいと思ってる。三島由紀夫が完全な三島由紀夫を模索していったような感覚が僕にもある。そして偶然の否定。でも、この問題はめちゃめちゃ難しくて自分でもイマイチわかってない気がする。あと、めちゃめちゃ疲れる。疲れたら休もう。どうせほとんどの人には理解されないことだから。

 

それよりも女の子のことを書こう。

時間ゆっくり流れてる系と生き急いでる系のコントラスト。ゆっくり生きなよって言われるけど、さすがにそれは出来ない。

「なんでそんなに生き急いでるの?」

ざっくりとしかわからない。今度考えよう。でもひとつ言えるのは生活のどこかで落ち着く時間、人間関係を絶対に欲していること。女の子に求めているのはそれだったり。

「でも僕は時間ゆっくり系の人めっちゃ好きですよ」

 

「時の流れに傷ついたようなあの苛立ち僕は繰り返す」

「いつかふたりに存在した時間はすべて北風がさらって」

昨日自分で書いた歌詞をじっくりと見直す機会があったのだけど、いいなあと思ったり恥ずかしくなったり。自分で書いたものに書いたとき以上の意味を与えたり。なんていうか、頑張ろうと思う。

 

 

すどうさんと別れてから1年以上が経つんだよなあ。