割れたスマホ

犬と遊んでいたらスマホを落として画面が割れた。人生ではじめての経験だ。割れた画面でスマホをいじってる奴らを意味もなく散々嘲笑してきたけど、ついにそちら側の人間になってしまった、という気持ちがいちばん強かった。

なるほど、と思った。僕は"犬"と遊んでいる最中にスマホを落としたのだが、今まで嘲笑してきた奴らはこの"犬"が"人間"だったのであり、また"友人"であり"恋人"であったのだ。犬が家にきたのは1ヶ月ほど前だからまだそこまで時間が経ってないが、奴らは毎日スマホが割れる危険性のある関係の中で、毎日スマホが割れる危険性のある社会の中で生きているので、僕よりもスマホが割れる確率が高いのは当たり前だった。割れたスマホの画面から感じ取れるのは"不注意"や"がさつ"といった単純なものだけでなく、"スマホが割れる危険性(確率の高い低いはあるが)のある社会の中で生きて、そして実際に割れてしまった人間"ということだった。24時間365日布団から離れない人間であればスマホの画面は割れないのだ。

僕は"スマホの画面が割れている人"デビューをした。胸を張って割れた画面をタップしまくろうと思う。嗚呼、憂鬱だなぁ。

お土産をもらった

なんだかわからんけど、楽しい。

僕の住んでるところは田んぼと住宅が6:4くらいの割合で、ちょっと歩けばすぐ山に登れる。別方向にもう少し歩けばコンビニがあるし、さらに別方向にもう少し歩けば大きめの公園だってある。ほとんどの家は日付けが変わる前に電気を消すし、"夜は寝る時間"っていうのを何も疑わずに生きている。夜中に聞こえてくるのはカエルの大合唱。たまに本気でうるさい。

昼間は駅(家から歩いて1時間ちょいくらい)周辺くらいまでがホーム・タウンって感覚だけど、夜になるとホーム・タウンの範囲はグッと小さくなる。公園まで行くともう"他所へ来ちまった"と思う。うそ、公園はぎりぎりホーム・タウン。でも1時間で2回も職質されるっていうのは"ホーム・タウン認定"においてかなりマイナス要素。どうでもいいけど。

岩澤の実家はウチから徒歩5分程度で公園とは逆方向。深夜3時、両方の家の中間地点あたりで僕らは落ち合って

「欅が3Dで出てくるやつ見たんだけど、マジですごいよ」
「うわ、最高じゃん。どんなんだった?」

「いや、なんていうか、とにかく3Dなんだよ」

「マジかよ、スゲえな。」


みたいな会話をした。それは中高生が


「おれとうとう童貞卒業したよ」
「うわ、最高じゃん。どんなんだった?」

「いや、なんていうか、そりゃオナニーのほうが気持ちいいけど、それとは別っていうか、なんかこう精神的な気持ち良さっていうの?とにかくたまらんね、あれは」

「マジかよ、スゲえな。」


みたいな会話をするのと同じテンションだった。高校1年の頃の自分が恥ずかしい。

社会のプレッシャーから逃げたら楽しくなった。というより、今までの人生で隣にべったりくっつかれていた"社会との問題"がなくなった。それは現実的に起こっていた問題から、観念的な問題へとシフトしていっただけなんだけど、それでもかなり楽になった。もう社会には戻りたくない、戻れないという感覚がある。なんだかんだ社会で戦っている人は"なんだかんだ社会で戦える人"なんだと思っている。それを甘えと捉えてもらっても構わないけど。

社会学も哲学も言語学もほっぽり捨てて、僕はサッカーを見続けているし"ケヤカツ"をし続けている。岩澤とくだらないことを喋り続けているし、調子良いときは1日2回はオナニーもする。最近は肉体を感じたいと強く思ってるけど。僕がしてることはなんの意味もないし空虚な時間だけど、社会から切り離したらなんだってそうだし、全部がくだらないし全部が悲しいし全部が楽しい。

僕は「いまがいちばん楽しいね」と言うことができるし「今すぐにでも死にたいね」と言うこともできる。

 

楽しいけど、なんだかわからん。

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