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僕たちは付き合っていると言おう

記憶に確証を持てなくなってきた。

自分のカメラロールを見ていると、アイドルやミランの選手、くりぃむしちゅー(大好き)や三島由紀夫など、様々な人の画像が保存されていた。これらの人たちに実際会ったことはないが、会ったらなにを喋ろうかなあと、よく妄想はしていた。中学生の時なんかは特にアイドルを対象としており、僕の頭の中にはもう数えきれないほどの会話パターンがあり、物語まで出来上がっていたので、もはや実際に会っているのかもしれない状態だった。それがわりと楽しかったし、救われたりもした。一応過去形にしているが、今でもたまにやる。

「昨日は僕の悩みを聞いてもらったから、今日は彼女の悩みを聞いてあげよう〜」

 

カメラロールを見ていると、実際に会ったことのある人の写真も出てくる。知り合い、友人、恋人関係だった女の子…。もうほとんどの人と長い間会っていない。おそらくこれから会うこともないであろう。あんなこと喋ったなあ、あそこ一緒に行ったなあ、と思い出ってやつがたくさんあるが、ぼくはほんとうにそれらのことを経験したのだろうか。どこかへ行った、というのは一緒に写っている写真でもあればまだ良かったが、昔は写真を撮られるが大嫌いだったので基本は無い。なにを喋った、に関しては実体がなにもない。実際にあったこととして喋っていたことも、笑いを足すためにちょこちょこ弄っていると、もうなにがほんとうかわからなくなっていった。もう長い間会っていない、そしてこれから会わないであろう人に関する記憶は、アイドルに関する記憶となんら変わらない。屁理屈を言っているように聞こえるかもしれないが、その記憶が自分に与えた影響を考えると、彼女を除くと圧倒的にアイドルのほうが大きい。記憶ってなんなんだ?「すべては虚構なのさ…」とデカダンな悟り顔で言いたくなる。

「ぼくは確かにこの女とセックスをしたはずだが、ほんとうにしたのか?実はぼくはまだ童貞なんじゃないのか?」

 

こんな記憶の問題は1年ほど前に自分の中で解決させたはずだったのだけれど…。

 

 

『世界には愛しかない』への憧れ

若さに憧れる。

20歳になるまで若さが嫌いで嫌いで堪らなかった。自分に若さがあるとは思っていなかったから、自己嫌悪はまったくなかったのだが、学校に週5日半日閉じ込められていると他人の若さにぶん殴られる。あまりにも、まわりが若すぎる…!その健康的肉体と社会的に未熟すぎるが故の、ある力強さを持った精神のバランス感覚。「実はこんなことがあって…」と友達同士で悩みを打ち明ける昼食タイム。「こんなんじゃ私たちダメだと思う!」と涙目になりながら同級生または後輩に訴えかける放課後の部活動。みんな小さな社会の中で絶対的な正義を振りかざして全力で生きていた。

「くっだらねー」と思っていた。自意識の話をするのは雑魚だが「こんなんじゃ私たちダメだと思う!」と芝居掛かったセリフを言っている自分を客観視したとき、どうしてそれに耐えられるのだろう!「実はこんなことがあって…」と誰に言ったところで返ってくる言葉はだいたい同じ、空虚なアドバイスなんかもう聞き飽きた!

それでも僕にも悩みなんかは当然あったわけで、ただこの教室にいる誰に言ってもわかってもらえないだろう、ということだけはわかった。17〜18の僕がたどり着いたのは、ある程度のことを諦めることだった。諦めからスタートすればそれほど深く傷つくことはないと思った。そこから出来ていった社会への反抗は笑いだ。マジメに喋ったところで誰もなにも反応してはくれないのだから、笑いに昇華させて、笑ってもらうという反応を引き出すことで、承認欲求を満たしていく。だから喋りまくった、ズタボロの精神状態で。そんな10代。

 

20歳になると若さに憧れた。ただ僕には若さがなかったので、若さを演じることを目指した。芝居掛かったセリフを芝居掛かったセリフだなあと思いながらあえて言うことを望み、僕の芝居掛かったセリフを、芝居掛かったセリフだとわかったうえであえて言っているのね、とわかりあえる人を求めた。それはフリッパーズの歌詞のような人物像で、僕の言葉にはすべて「あえて言うけど、すべてわかってるけど」が言わずとも付くようになった。

2017年になり、以前にも増していろいろなことを考えるようになった。たくさんのことを知った。たくさんのことを知ると、なにも言えなくなってしまう。笑いに昇華させることもできなくなってきた。すべての言葉・思想はあらゆる観点から妥当性をつけることが可能(自分の思想がどれだけ言い訳のうえに成り立っていたことか!)であり、なにより自意識が表裏一体堂々巡りのものであるからだ。

小沢健二が『ローラースケート・パーク』という曲の中でこんなことを歌っていたのを思い出した。

「ありとあらゆる種類の言葉を知って 何も言えなくなるなんてそんなバカなあやまちはしないのさ!」

「意味なんてもう何も無いなんて 僕がとばしすぎたジョークさ」

 

僕は強さを求めるようになった。人間は形の中で生きて形の中で死んでいくものだ。近代的自我なんてものはない。"ほんとう"なんて何処を探しても見つからないのだし、なぜ人は生きるのか、なんてことは哲学にもならない。なぜなら"ほんとう"とは、人間が勝手に作り出した嘘だからだ。それでも"ほんとう"が欲しい。絶対的な大義が欲しい。"ほんとう"を作り出して、それを信じて疑わずに生きていけたらと思うのだが、今の僕にそんなことができるのだろうか。三島由紀夫も最後の最後まで葛藤があった気がしている(「結局僕は太宰と同じなのさ…」とこぼしたことがあるらしい)のだが、彼は"行動"によってその思想を絶対的なものとした。自らの死をもってして自分の思想を完成させたのだ。そんな強さ・美に憧れる。

"ほんとう"を信じて疑わずに生きることを、強さのひとつとするなら、若さは強さだ。ここ数ヶ月で、僕の若さへの憧憬の思いを強くさせたのはアイドルグループ、欅坂46だ。「笑わないアイドル」なんて呼ばれたりもする彼女たちの2ndシングル『世界には愛しかない』は若さ=強さがあらわれている曲だと思った。

この曲は"僕"のリアリティ、"僕"のアイデンティティを歌っている。若者が"ほんとう"の自分を見つける、というような曲だ。

「世界には愛しかない(信じるのはそれだけだ) 今すぐ僕は君を探しに行こう 誰に反対されても(心の向きは変えられない) それが 僕の アイデンティティ

「世界には愛しかない」ということを信じて、「誰に反対されても 心の向きは変えられない」ほどの強さをもっている。おそらく多くの人は「そんな優しい世界じゃないよ」だとか「社会を知らなすぎる」などと嘲笑するのだろうが、これほど強い意思を持った人間の強さは、そんなくだらない言葉に意味などもたせないのだろう。

「涙に色があったら(人はもっと優しくなる) それが 僕の リアリティー」

「涙に色があったら」という表現を使いつつ、それをリアリティーだと言ってしまえるのは若さ(=強さ)をもっている人だけなのではないだろうか。このフレーズはとても好きだ。

大抵若さは儚いものだ。社会に出ていくにつれて、それまでのリアリティは現実感に乏しいものだったのではないかと思いはじめる。そしてまるで過去の自分を否定するかのように、決まって「きみは若いねえ」などと言いたがる。だが、その儚い若さの中で絶対的な大義のために死ねるとしたら、それはどれだけ美しいことか!この曲の"僕"が、僕にはとても羨ましいし憧れるのだ。

 

なにか明確になった思想を語りたいわけではない。なぜこんな恥をわざわざ書いているかもわからない。もしかしたら欅坂のことを話したいだけなのかもしれない。しかし若さ(=強さ)への憧れと、そこに辿り着けないだろう恐怖が毎日僕を襲ってくる。現代社会という形の中でどう体温を保ち続ければいいのか、"ケヤカツ"をしながら苦しみ続けている。

 

この文章は2017年5月14日に書かれたものであり、また書かれていることはなにを保証するものでもない。強くない僕は、最後にこんなことを書かなければいけないのだった…。